約150年前の福岡県・宗像の話である。嘉永から安政にかけ、同地では洪水、日照りと凶作が続いていた。医師達は貧しい患者を治療しても謝礼がほとんどなく、大黄などの漢方薬も大庄屋から借金をせねば購入できなかった。このような懐事情でも、医師は「仁術」の名において患者に未払い分を請求できなかった。少し前の天保の頃、他所から来た滞在医に患者を奪われ生活に困ったこともあったが、今回はそれどころではない。飢饉続きで裕福な人も「世の中が悪い」と言って謝礼を少なくするようになった。医師と患者の関係がギクシャクし翌年には主治医を変えてしまう。しかも『前医をそしり、後医を称し、さまざまな弁舌を持って他の病人をも(後医に)相頼ませ、前医の恩義も忘失いたし候やからも、間には御座候…』という具合であった。明治に入り、同地区の医師は櫛の歯が抜けるように減少していった。医師の生活も困窮していたのだ。

 一方、村人達にも医師減少は深刻な問題であっただろう。他所から来た滞在医が良いように思われたが、彼らは飢饉になれば謝礼がない村は寄り付かない。では、村医に頼もうにもそこにはいない。よって、米を普段から積み立て医師に渡し、病気になれば貧富の差なく誰でも診てもらえる仕組みを作り、医師に村に残ってもらおう…。これが同地の相互扶助制度である「定礼」の始まりと思われる。

 手元の文献(「筑前宗像の定礼」井上隆三郎著)では、この制度を村人が発案したものかは不明である。実は医師組合や大庄屋の申し出かもしれない。今、わかるのは江戸時代の貧困地域の患者さんの気質、医療者のあり方が、今の時代の医療崩壊と似通ったところがあるということだ。医療は国家の安全保障。しかし、同時に現役世代や未来の世代からの借金で賄われている。当たり前の医療を当たり前のように受けることのできる現実をもっと、国民全体で噛み締めようではないか。

今井 真

注1)
当原稿は、大阪府医師会「府医ニュース」のコラムに投稿したものを
一部内容を変更し再掲載したものです。

注2)
この国民健康保険の源流となった「定礼」を作った
宗像の頭取医今井養洛は今井真から数えて6代前の先祖です。

注3)
宗像にある「定礼公園」の前に存在した「神興共立医院」の初代医師は
今井仙太郎と言い、当院の初代、順次郎の父、政次郎の兄であります。
3年で「神興共立医院」を辞め、その後明治生命の嘱託医となりました。その子廣太郎は軍人となりました。